乖離した世界で作られる子ども達の未来

Joshua ChoateによるPixabayからの画像

最終学歴が生涯賃金に与える影響

ボクの友人には誰もが知る名門大学を卒業している人、逆に高校を出ておらず中卒が最終学歴のお世辞にも高学歴とは言えない友人もいる。

かく言うボク自身も最終学歴は世間的に決して良いとは言えない高校で、卒業後に社会に飛び込んだ。

なぜ冒頭で学歴の話をしたのかというと、それは教育を議論するときに頻出する「最終学歴が生涯賃金に与える影響」を最小に考える必要があるからだ。

  • 高卒、2億5500万円
  • 大卒、2億8970万円

上の数字を見てわかる通り、その差はなんと3470万円。中卒と大卒ではなんとその差は1億円にもなるそうだ。

大学や専門学校を出ていないと就けない仕事(厳密には取得できない資格)があるし、大学卒という肩書は個人の能力値を測る指標にもなり、もはや一種のブランドにもなっている。だからこそ学歴は良ければ良いほど人生を豊かにするステータスだ。

ではなぜ就職するときに大学卒という肩書がステータスになるかと言えば簡単で、「会社組織で稼げる人材である」という太鼓判とイコールになるからだ。逆にいうならば面接という短時間でそれ以外でその人の能力値を測るのは難しいのが実態だ。

素晴らしい大学卒の肩書を持っている人は、きっと学生時代は実直に勉学に励み、明確な目的とそれを見据えて突き進む忍耐力を持ち合わせているわけだから、会社での活躍にも大いに期待できるだろう。

でもその良い学歴を取得するための教育が本当に適切に設計されているのだろうか? 考えてみたい。

高学歴なら無条件で豊かな人生が歩めるのか?

ボクの家庭はお世辞にも教育熱心ではなかった。

兄弟が多かったせいもあってか学校をサボって遊んでいても怒られた記憶はないし、今思えば人様に迷惑を掛けなければ良しといったスタンスだったんだろう。

そんな生活を送っていたので高校時代は学校を抜け出して友人と遊びに行くなんてのは当たり前で、ボクの成績は常に下位10番内の常連だった。

だからといって友人みんなが学校をサボっていたわけではなく、真面目に授業を受けている友達はそれなりにいい大学へ進学していた。

ではそんないい大学に行った友人が皆が皆、いい会社に勤めて豊かな人生を過ごしているかとそうではない。
いい会社に行けばそれなりの成果を求められるし、そのプレッシャーは大きい。

実際に、うつ病を患ってしまい、今でも就職につけない友人もいる。

そう考えると「高学歴=豊かな人生」と一概に言えないのではないかとも思える。
厳しい面を見るならば「高学歴=良い成績を残さなくてはいけない」というデメリットも生じてくるはずだ。

では低学歴なら自由奔放でいられるのかと言えばそうではない。当然ながら新社会人の時点では特に賃金が低いし、その穴埋めに多くの時間を好き嫌い問わず労働に費やさなくてはいけないのだから決して豊かとはいえない。

要するに低学歴に課題があることはこれまで言われてきたことだが、高学歴だって課題はあり、単純に高学歴=高収入で幸せ、という安直な夢物語ではないということだ。

教育は将来の社会的ニーズを満たすもの

教育基本法というのがある。

日本の教育の根幹を明文化したものだ。名前くらいは聞いたことがあると思うが、その中身まで読み込んだことがある人は少ないんじゃないだろうか。

ボクはこの法律の冒頭の目的が好きでよく読み返している。その一文を紹介しよう。

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法-第一章 教育の目的及び理念(教育の目的)

ざっくり訳せば、「社会の形成者として必要な資質を兼ね備えた主体性ある人材育成をしなくてはいけない」と言ったところだろうか。

この目的を達成するために日本の教育は行われている。

でも考えてみてほしい。「社会」や「必要な資質」とはいつの時代のものを指しているのだろうか。
時代が変われば社会の在り方は変わるし、社会が変われば求められる資質も異なってくるに決まっているはずだ。

教育の厄介なところは誰もが経験していることだと考える。日本人の99.9%はその期間は異なれど日本の公教育を受けている。

テレビのコメンテーターを見てみると分かるが、専門分野は専門家しか濃く触れないから「専門」家なわけで、研究に研究を重ねた専門家の言葉は重く響く。

だけど公教育に関してはほぼすべての人が通った道であり、皆が体験者である。
その為、教育の議論では必ずと言っていいほど自身の体験から今の教育を語る人が一定数いる。
なぜならば小中学校だけでも9年間、高校を入れれば12年間という長い時間をかけた公教育の体験者なのだから、皆が教育の専門家かのように自身の経験談を基に教育を饒舌に語ることができる。

でもそれってどうなんだろうか。教育基本法の目的に書かれている通り、今の教育は先の社会に向けて取り組むべきであって、過去の教育から今の社会に向けるべきではないはずだ。

それなのに過去の教育の体験を通して、自身を教育の専門家と勘違いしてしまい、将来を見据えることなく体育会系のノリで今の教育はこうあるべきだと豪語してしまう。これは何もお買い物中の井戸端会議だけの話ではなく、教育の現場で働く人たち、そして行政の中にも同じようなマインドの人が存在しているのが事実だ。

国・数・理・社・英で一番大事なのは何?

社会は情報化によって一気に変化の速度を加速した。Society5.0という言葉が指す通り、政府も情報化を大きな社会変化の一つと捉えているのがわかる。

ボクが子どもの頃は社会と触れると言えば親、学校の先生、テレビくらいだった。その中でも双方向のコミュニケーションがとれるのは親と学校の先生で、テレビは一方的に情報が垂れ流されるだけで社会に触れるというには少し弱いかもしれない。

その時代に定義された社会と、今のようにスマホ一つで世界中とコミュニケーションがとれる時代の社会をはたして同じコンテンツとして語っていいのだろうか。

これはレベルが上がったなんて単純な話ではなく、まったく別物にジョブチェンジしたようなものだ。だからこそゴールとなる社会の形が変わったのだから、ゴールに行きつくまでの手法となる教育の在り方を変化させるための議論をしなくてはいけないはずだ。

冒頭で紹介した中卒の友人は今では立派な経営者となっている。小売業を営んでいるのでSNSを中心に情報を操り自社のブランディングと販売戦略を成功させている。

友人と話していて必ず出る話は義務教育の必要性だ。企業経営をする中で義務教育の学びの重要性が低下している感覚からこの話題になる。(一部学歴の低いボクらだからこその反骨精神が含まれていることも否定できないが)

もちろん義務教育で習う国・数・理・社・英の5教科を不要だなんて言うつもりはないが、この友人の例でいえば優先順位は間違いなく情報>5教科だろう。

その理由は簡単で、昔の教育では知識というツールを使って5教科の最適解を導き出していたが、今はスマホで瞬時に最適解を導けるようになっており、その最適解を導き出すためのツールが情報に変わっているからだ。

視点を変えるならば、今の社会が情報に重要性を含ませることになったからこそ5教科を武器にすることの必要性が薄くなり、友人はビジネスを成功させることができたのかもしれない。

コミュニティは家庭から世界へ

時代の変化に伴って社会は形を変える。そして社会の形が変われば教育の形も変わる。

教育は20年、30年先の先行投資のため、時代の変化を見据えて取り組まなければならないが、その変化は誰も予想できない。
それでも社会の変化を予想して、より未来の社会に適合する教育を創り上げていかなければ将来、社会ニーズと個が持つスキルは大きく乖離してしまう。

しかし情報化によって国境は溶け始め、既に社会は家庭や地域という小さなコミュニティから世界という大きなコミュニティと変化している。

その世界という大きな社会の中で競い合うために向けて行うべき教育が今行われているかと言えば疑問符を付けざるを得ない。

それは何故か。

誰もが教育の経験者であるため、思い出がいつしか美化されることで、過去の社会価値に染め上げられた教育が価値の高いものと認識され伝承されているから。

まるで実態と乖離した世界で作り上げられているような教育に違和感を感じないだろうか。

教育は子ども達のためであると同時に、社会のためでもある。そして社会が好循環することはやがて年老いたボクらのためでもある。

4歳児に行ったマシュマロ実験というものがある。
目の前に置かれたマシュマロを15分間我慢できるか、それともすぐに手を伸ばしてしまうのか。
結論は我慢できる子どもの方が20年後に心の知能指数と言われるEQが高くなるという実験結果が出ている。

ボクらは将来を見据え、教育に投資することができるのか。それとも目先のマシュマロに喰いついてしまうのか。
一緒に4歳児の気持ちに戻って考えてみませんか。

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