教育現場の自由化はどこまでを自由にすべきか

義務教育導入の経緯

今、義務教育の現場での個の尊重、いわゆる個人の自由が声高に叫ばれています。
その中でも制服選択制や髪形の自由化などが主に取り上げられますが、そもそも何故日本の公教育は服装や髪形に制限が掛けられているのでしょうか。

義務教育の導入は1872年、富国強兵の理念に基づいて設立されました。
画一的な教育を通して強靭な経済や軍事力を持つことで世界的地位を高めるために導入したのが義務教育というわけです。

当然そのような時代には個の尊重など概念はないわけですから、効率的な教育環境を整えるためには全員が一律で高い成果を出すことが求められ、効率的な管理体制が求められました。その一つが生徒の服装や髪形の統一管理です。

しかし、今の社会環境を鑑みればわかる通り、画一的な人材育成は各々が持つ個の可能性を押し殺してしまう可能性が明白となりました。

もちろん画一的な教育の結果、平均的な能力を活かすことに長けた人もいます。しかし、情報化により選択肢の広がった社会において個の能力を活かすことに長けた人材がいるのも事実であり、そのような人材を伸ばすためには過去の画一的教育の踏襲は見直す必要があります。

自由と不自由は表裏一体

では、服装や髪形はどこまで自由化すればいいのでしょうか。
そもそも服装や髪形を自由化することと個の能力を伸ばすことに関連性はあるのでしょうか。

服装や髪形を自由にすることで生じるデメリットが懸念されているのも事実です。服装であればその衣類のブランドから家庭での所得が想像されますし、髪形にしても周囲へ威圧感を与えてしまう可能性もあるので、自由の主張が結果として周囲に一定の影響を及ぼすことも想定されます。

そう考えると個の主張が個に与える影響にとどまらないことも懸念されるのは当然と言えば当然であり、あなたの自由が誰かの不自由を招く可能性があります。

今、自由が議論される機会が増えていますが、自由は時として他者の自由を制限してしまう恐れもある以上、闇雲に自由の主張は控えるべきであり、個の主張が生み出すメリットとデメリットを天秤にかけて議論をしなくてはいけません。

自由の尺度はグラデーションであり、そのグラデーションに自由を生み出すための線引きをすれば必ず不自由を被る人は生まれ、そこから発せられる反発にいかに説明をするか、どのように理解をしてもらうかを議論することが政治の担いであると考えます。


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明ヶ戸亮太(あけど亮太):経営者×市議会議員
現在40歳:川越市議会議員(現在三期目)・広告会社代表取締役・ICTコンサルタント・FPのマルチタスク / JAPAN MENSA会員
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